続・私の生い立ち
大学でジャズに興味を持ち始める
大学はストレートで多摩美術大学に進学してインテリアデザインを学びました。周りの影響もあって子供の頃から絵を描くのが好きだったんで美大に進みましたが、絵描きになる情熱も才能も無く、単にデザイナーという職業に憧れていました。
大学の軽音楽部に入って、3年生がやっているスイングジャズバンドにコーラスで参加しました。他にもデルタブルースのバンドで歌いました。私が大学3年になるとジャズを演奏する人たちが多摩美に居なくなって、近くの中央大学のモダンジャズ研究会へ遊びに行く様になりました。このジャズ研通いのお陰で、セッションに必要な知識やヴォーカリストが必要なリードシートが作れるようになりました。子供の頃にピアノを習っていたので、譜面を書いたり移調するのはすぐ出来ました。ヴォーカルだけでなく、モダンジャズのインストをよく聴く様になったのもジャズ研のお陰です。マイルス・デイビス、クリフォード・ブラウン、チャーリー・パーカー、ビル・エバンス辺りをよく聴きましたね。4年生になると多摩美よりも中大にいることの方が多くなったかも?
私は大学は4年で卒業しましたがちゃんと就職せずに、ゼネコンの設計部でバイトをしながら沢田靖司ジャズヴォーカル・スクールで本格的にジャズヴォーカルの勉強を始めました。その後いくつかのジャズコンテストで受賞したり、女性ばかりのビッグバンドで歌ったり、その内に銀座、赤坂新宿のクラブやライブハウスでも歌わせてもらえる様になりました。
ヴォーカリストの先輩達はバブル華やかな頃にジャズブームが重なったこともあって、リクエストに応えられる程レパートリーが無くても仕事が出来たそうですが、当時はもう実力や人気のない歌手は雇ってもらえませんでしたし、特に若手のヴォーカリストが歌える場所がありませんでした。昼間は歌を続けるための仕事を転々としてましたが、最終的には親を安心させる為に丸の内の特許事務所に就職して、毎週金曜日だけ銀座のクラブで歌う生活にシフトしました。
そんな生活を3年程続けて居たら、親戚や親からは「結婚」の圧力をかけられるし、ジャズクラブではマダムからは「趣味として歌うのか、お嫁さんに行くのか、プロになるのか、そろそろ決めた方がいいんじゃない?」と言われる様になりました。当時は結婚してくれそうな相手が全くいなかったし、自分に自信もなかったので随分悩みました。NYへ行って自分の歌がどの程度通用するのか、自分で自分の立ち位置を確かめたい。と思う様になりました。そして一年かけて準備して、NYに一年間だけ留学する事にしました。
ジャズに恋して、単身NYへ
頼る人もいない独りぼっちの渡米。片道の航空券でNYへやってきました。大人になってからの語学留学でしたから、語学学校のクラスメイトはアメリカの大学進学準備の学生さんがほとんどでした。
NYでは最初は大学のESLにいましたが、大学受験はしないので授業料の安い語学学校に転校して、Jay Claytonの個人レッスンに通い、Barry Harrisのワークショップで歌の勉強を続けました。興味のあるライブを観に行ったり、夏はフリーのコンサートも沢山あるので、時間の許す限り出かけて行きました。
でも、やっぱり1年程度じゃ英語は身に付かないと実感しました。私のビザは一年だけだったので、つてを頼ってアーティストビザに切り替える申請をしてみることにしました。当時はアメリカの芸術大学を卒業する留学生達がアーティストビザの申請をすることが多かったので、私の場合は日本での芸歴を使って申請しました。でも、丁度移民局のシステムの転換期だった事もあり、多くの申請が取り下げられていたので、私の場合は追加書類の提出で許可が降りて本当にラッキーでした。注意)2019年現在ではあらゆるビザ、グリーンカードの取得が難しい状況にあるそうです。
そんなこんなで、いよいよビザ切り替えの為に日本へ一時帰国帰国する事が決まりました。そんな時に主人でジャズピアニストのJeb Pattonと出会います。お友達のホームコンサートで、彼はピアノを演奏していました。その時は名刺の交換だけして、お互いに顔も良く覚えていませんでした。その直後に私は日本へ、ジェブはヨーロッパツアーへ出かけ、再会したのは約1ヶ月半後の夏でした。